ナスとパプリカ@実家の様子

先週末は、実家に帰っていない。このため、電話でパプリカとナスの様子を尋ねた。
「あんかが、壊れてるのかねぇ。暖ったかい時と、冷たい時があって、昨日の朝とか冷たかったけど。」
保温用あんかの電源コードの接触が悪い疑惑。で、肝心の苗たちの様子はどうなのか。
「あー、全然ダメ。黒の鉢(4連結型ポリ鉢)の方は、ちょっとしか出てないし、ペットボトルの鉢の方も、情けない感じで。」
もうちょっと、具体的な表現はできんのかね?黒の方(ナス)とペットボトル(パプリカ赤・黄)は、それぞれ何本出ていて、何センチぐらいであり、葉っぱの形状はどうなっている、とか。何を根拠に「全然ダメ」と総括するのか。
「もうほとんどダメだね。ひょろひょろで。」
だめだ、話にならない。とりあえず、何事にも評価が辛いことを割り引いて聞くに、少なくともロクに成長していないということなのだろう。発芽本数はそんなに増えていないのに違いない。ただ、それが致命的な状態で、蒔き直しが必要なぐらいなのか、最近天気が悪いから伸びないで小さく、暖かくなったら復活する余地があるのかなどは、めんどくさい解説をする気がゼロの人間にいくら尋ねても、さっぱりわからない。やむを得ず、とりあえず、昼間のケアの状況を聞いてみる。
「めんどくさいけど、毎日、窓際の日当たりが良いところにちゃんと出してる。水もたまにあげてる。ただ、お天気悪いし、寒いし、今年はだめなんじゃないの。あはは。」
・・・・きたよ、「あはは」だって。
話が飛ぶようだが、うちの実家は何事も成果主義である。育てるプロセスで起きた出来事をいくら「弁明」しても、成果がショボイと、ダメなのだ。修行中(あるいは教育中)の人間を「褒めて育てる」なんて、そんな優しい文化は記憶にない。何しろ、うちは犬でさえ、褒めてもらうことは少ないのだ。躾について「褒めて育てないと」と提案すると、「褒めるところがない」と一蹴されたりする。恐ろしい。自分を育てる過程で、両親はどんなことを語り合っていただろう。
「いやー、褒めようがなくて」「そりゃ、どーしょーもない」
とか言い合っていたのだろうか。いや、そもそも「褒めた方が良い」という発想すらないかしらんが。
話を戻そう。
成果の評価についてだが、野菜の場合、ショボさは2、3割増で記憶されている気がする。「去年はこんなもんだった」と手で示すサイズが、大体2、3割小さいからだ。ちなみに、良い成果よりはショボイ成果の方が記憶に残るようだ。ネタとしてのインパクトの問題だろう。
ちなみに、今回のように、育てるプロセスに家族が関与している場合も成果についての責任は軽くならない。しかも、余程のことをしない限り、育てる作業の一部を託された家族の責任は不問である。受託者の不出来は、委託者の責任。委託者(私)は受託者(親)の資質を知っているはずだ、ということだろう。その開き直りが、「あはは」という笑いコメントにつながっている。
しかも、実家の家族は、野菜の評価はするが、実は野菜を食べること自体に、あまり興味がない。野菜好きは犬だけで、基本的に肉食系一家であり、野菜は健康上の観点から義務として食べるという意識が強いからだろう。家人だけは草食系で、出された野菜が多少固かろうが、見た目がショボかろうが、同じ野菜が連日山盛りになろうが、気に留める様子も見せず、文句も言わず、むしゃむしゃ食べている。野菜の成果がイマイチな時は、それだけを慰めにしている。